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● SLOW DOWN  ●

 ――いま、1番欲しいものって何?

 ノートの罫線を無視して書かれた文字は予期せぬシュートのようだった。まるで、頭の中を真っ白にし、直後に盛大な衝撃と混乱をもたらす対戦相手の3Pシュートだ。
「……1番欲しいもの?」
 板書に夢中な教師の背に一瞥をくれ、長谷は隣の席の少女へひそめた声で尋ねる。突然の質問に対する驚きは隠し通したが、なぜそんなことを聞くのかと訝る気持ちは率直に声に現れていた。
 しかし、少女はまるで意に介する様子もなく、長谷の返答を今か今かと待ち続けている。こうなってしまうと厄介だった――「天然」の二文字で表せてしまう彼女は、この授業が終わるまで長谷の返事を待ち続けるに違いないからだ。
(……なんでそんなことを知りたいんだか)
 嘆息に疑念と諦観を添えて、長谷は胸の内で肩をめながら再度ノートへ目線を落とす。
 いま、1番欲しいもの。
 彼は伸び放題の髪を手櫛で梳きながら、走り書きをじいっと凝視した。そして、唇を真一文字に結んでからその横に乱雑に答えを記した。
 強さ、と。


   ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「随分と上手くなったじゃないか」
 ボールが吸い込まれるようにネットへ入った瞬間、その声は虚を突くように背後からかけられた。次のボールへと手を伸ばしかけていた長谷はぎょっとして振り返る。
 思わず顔が強張こわばったのは、聞きなれた声音に対して懐かしさよりも「まさか」という驚きを感じたから。だが、間違いではない。体育館の出入り口に並んでいるのは、どう見ても彼の尊敬する2人の先輩だった。
「間宮さん……あずまさん……」
 遠慮がちに名前を呼ぶと、まず最初に応えたのは間宮の方だった。たくましい、という言葉が誰よりも似合う彼は、試合中とは打って変わった柔和な眼差しを長谷に向け、気取ることなく軽く片手を挙げてくる。
 その間宮の横で東はというと、相変わらず「今にも倒れそうな」色白な顔に、こちらも相変わらずな「人を食ったような」意地の悪い笑みを張り付かせて、透いた声を発する。間宮に向けて――ただし、長谷に聞こえる大きさで。
「ね、だから言ったでしょう、間宮さん。人は日々、成長するもの生き物なんです」
「努力すれば成長する、それは当たり前の話だ。問題は程度であって……」
「あいつは野生というか“人外”の部類じゃないですか。そりゃ、僕たちの知らない間で急成長もしますって」
「そう言われると、確かにお前の言っていることには一理あると……あぁ、長谷、気にせず練習続けていいぞ」
 唖然としたまま聞き入っていた会話に前触れもなく自分の名前が出てきた。長谷は慌てて姿勢を正し、遅ればせながらの挨拶を口にする。――練習を見られていた気恥ずかしさでどもりがちになりながら。
「いや、その、あの……ちはっス……」
 歯切れが悪いと自覚した刹那、間宮と東の笑い声が森閑とした体育館の中に響いた。からかうような言葉と共に。
「プレイはともかくとして、口調は大人しくなったな」


 長谷が、敬愛している2人の先輩、間宮と東に会うのは半年ぶりになる。
 厳密に言えば、卒業生の間宮はともかく、3年の東とは校舎内で何度かすれ違っている。ただ、親しげに言葉を交わしはしなかった。声を掛けづらかったのだ。
 理由は東の引退――受験のための部活引退、だった。
 それは、ある日、唐突に顧問から告げられた。長谷の部長就任という形でもって。
 バスケ推薦が幾つも来ていた東の引退は、他の先輩たちとは違ってギリギリまで延ばされる……長谷に限らず、部員の誰もがそう思っていた。信じていた。
 だから、東が推薦を断って一般受験に挑むつもりだと顧問から聞かされたとき、長谷は一も二もなくパニックに陥った。いつもどおり練習はこなしたのだが、一体自分が何をやっていたのか覚えていないくらいだ。彼が落ち着いたのは、全面的に信頼している、自分などよりも東のことを知っている2つ上の先輩、間宮へ電話をかけた後のことだった。
 3度目の電話で掴まえた間宮は、長谷が久々に電話をかけてきたことにわずかばかり驚いてみせた。が、用件が東のこととわかると即座に総てを察した。
「あいつは理想が高いからな……」
 話の途中で長谷は知ったのだが、間宮は以前より東から大学受験について相談を受けていたのだそうだ。
 プロになりたいかどうか、なれるかどうかは別として、大学に行ってもバスケをしたい。そう真情を吐露した東は、全国の大学から引く手あまただった間宮に多くのことを質問したという。
 間宮が今いる大学を選んだ根拠。各大学の選手層の厚さ。スタッフの充実ぶり。大学側が備えた環境。その他、諸々。
「ところで、お前のところにも推薦が幾つか来ているだろう、そこに行く気はないのか?」
 矢継ぎ早の質問の合間に間宮が一息をつくようにそう尋ねると、東は「幾つか来ましたよ。でも、間宮さんの大学からはもらえませんでしたね」と笑って答え、その後に一言付け足したのだそうだ。
 ――間宮さんだったらどうしますか? 自分のところに推薦を持ってきてるような弱い大学でプレイしたいと思います?
「そこそこのチームのレギュラーでいるより、強いチームの補欠から這い上がってレギュラーを奪い取りたい……東がそういう奴だって、お前も知ってるだろう?」
 引退を早めたのは卒業を機にバスケを捨てるからじゃない。卒業後に長くバスケと関わるための選択。
 東の真意を知り、それならば自分に口を出す資格などないと受話器を置きながら長谷は悟った。けれども、やはり、心の奥底では東の受験に全面的に賛成などできなかった。
(……頑張って希望の大学に入っても、その頃にまだ『バスケやりたい』って思っているかどうかわからないじゃん)
 自分は知っている。人の心は移ろうものだということを。
高校に入ったら一緒のバスケしようと誓った、今では散り散りになった友人たちの顔が脳裏をぎっていく。同時に、自分に向けて大きな疑問が頭をげたのもこのときだった。
 ――俺は? 俺はバスケを続けたいんだろうか。
 1年後。それから、その先……将来。
 バスケを続けているんだろうか。
 俺は、バスケを続けたいと思っているんだろうか……?


「昨日、本命の二次だったんだ。だから、今日はその報告に」
 まだ家庭学習期間中ではないかと尋ねる長谷に、東は靴を脱ぎながらさらりとそんなことを言う。
「ちょっと顔出せばいいかな、って思ってたんだけどさ、なんか間宮さんも『一緒に行く』って付いてきちゃって――」
 先輩を先輩とも思わぬ東の言葉は、激しいドリブル音によって遮られる。まるで、彼の主張に否やを唱えるかのように。
 反射的に音がした方へ長谷が振り返ると、いつの間にか靴下を脱いだ間宮がダブル・クラッチを決めるところだった。
「うちをホテル代わりにしたくせに……まったく、東、お前くらいだよ、先輩にそんなひどい口をきく奴は」
 ネットを揺らして落ちるボールを掬いあげるように拾い、間宮はすぐさま数歩後ろへと下がった。浅い角度から、今度はフックシュート。力強く、シャープな印象を与えてボールは誘われるように再びネットへ。
 やっぱりカッコイイよなぁ……。
 口を開けて見とれていた長谷は、不意に重大なことを思い出して声を張り上げた。
「ま、間宮さん! おめでとうございました!」
 シュート体勢に入っていた間宮の動作が止まる。それから、あぁ、と思い当たった顔で苦笑すると、彼は腕を下げて鞠つきのような気の抜けたドリブルに切り替えた。
「ありがとう、な」
「すごいです。さすが間宮さんっスよ! 決勝リーグ、あまり見に行けませんでしたけど、それでも、見れたときの試合とか本気で鳥肌立ちましたよ!」
「まぁ、この人、化け物だからねぇ。見てるこっちが鳥肌立つのも当たり前だぞっと!」
 長谷の傍らを通り過ぎていった東が「NBAライン」から得意の3Pシュートを放ちながら、言う。無論、一切悪びれもせず。
 東の「化け物」という言い方は彼なりの称賛を反映されたものだが、現実には畏怖をもって間宮のことをそう呼ぶ者たちもいる。――無理もない。間宮は、入学初年度に大学リーグでチームを優勝へ導き、MVPこそ逃したもののベストメンバーに新人王、アシスト王という輝かしい成績を残した、今や日本バスケ界の「期待の新人」「稀に見る逸材」なのだ。
 だが、当の本人は、長谷たちの言に謙虚に返した。
「試合はほとんど平日だからな、そうそう見に来れるわけないさ。それに……頻繁に見に来なくて正解だったぞ、きっと。情けない姿ばっかり晒してたからな、俺も。先輩たちをはじめとするチームのメンバーに助けてもらってばかりだった……結果が残せたのは周りのおかげだったな」
 声音には、やや、自嘲気味な気配。
 珍しいな、と長谷が東を見た。向こうも同じように思ったようで、示し合わせてもいないのに目が合う。
 時間にして数秒。その数秒の沈黙に横たわった戸惑いを、彼らの先輩は敏く嗅ぎ取ったようで声を立てて笑った。
「お前ら、俺のことをどう見ていたんだ? 俺だってそんな気分になることだってあるさ。やらなきゃならないこと……強制力がないからこそ達成させることが難しい課題、そんなものを山ほど抱えてるんだ」
「間宮さんが、課題? 間宮さんでも?」
「誰がっていう部分は関係ないだろう、そういうのって。誰もが、自分の中で懸命にもがいて、色んな課題を抱えているんだと思うぞ」
 誰もが。
 その一言が心臓を叩いたようだった。長谷の鼓動が早まる。
 ――今なら、言えるかもしれない。言っても構わないかもしれない。
 水を打ったような静けさが壊される前に、長谷は思い切って口を開いた。
「間宮さん……東さん……俺、怖いんです……」
 いきなりの告白に2人の先輩は目を丸くして長谷へ向き直る。自分が集めた視線なのに、それがなぜか痛い気がして、長谷は目を逸らして俯いた。
「俺……いつも不安なんです。負けるかもしれない、って不安なんです。主将なのに、間宮さんや東さんみたいに強くなくて……俺が主将になったから負けるのかもしれないって、不安なんです。でも、皆の前でそんなことを言えないから、だから、こうやって1人で練習して……でも、全然、上手くなれなくて……!」
「長谷……」
 ――授業中、いま、1番欲しいものは何かと聞かれて、浮かんだのは「強さ」だった。
 強さが欲しいと、思う。
 東のように、間宮のように、己の弱さを受け入れて、それでも上を向いて歩いて行ける、そんな強さが欲しい。それが高望みだというならば、せめて、1年後、あるいはその先、バスケを続けているかどうかを考える、その強さが欲しい。
「バスケが……怖いんです……」
 負けることが。
 最高だと感じる気持ちが錆び付いてしまうことが。
 バスケを諦めてしまう日が来てしまいそうで。
「――誰だってそうだよ」
 東の言葉は突然だった。
 声に牽引されるように長谷が顔を上げると、にわかにボールが飛んでくる。両手でしっかり受け止めると、パスを出した東が微笑んでいた。
「長谷だけじゃないよ。僕も、間宮さんも、誰も彼も恐怖と背中合わせでプレーしてるんだよ。負けるかもしれない、上手くならないかもしれない、そんな恐怖とね」
「それだけじゃないさ」
会話に入ってきた間宮へ視線を向けると、彼はバウンドさせていたボールを抱きしめて、どこか遠い目をして語り始める。
「足を引っ張るかもしれない。思いどおりにプレイできないかもしれない。自分には向いてないのかもしれない。マイナス思考ばかりが先にたって眠れなくなるときもある」
 そこで一旦言葉を切った間宮は、長谷の方へ顔を向けて静かに笑んだ。
「それでも俺はその恐怖と向き合うことを選んだ。……バスケが好きだから」
「間宮さんは……強いから……! 俺は、好きって気持ちだけしかなくて、それだけじゃ強くなれなくて……」
「お前だって強いさ。なぁ、東」
「え?」
「……あのね、長谷。好きっていうのが1番強いんだ。これ、最初は間宮さんが彼女に言われたことなんだけど」
「おい、東、出処でどころはいいだろう……」
「話の腰を折らないでくださいよ。――長谷、好きだって思うことが1番強いんだよ。嫌いなら何をやっても受け入れられない。でも、好きなら多少の無理はできちゃんだな、人間って」
「……好きだ、という気持ちからすべては始まっていくんだ。恐怖も、好きだという気持ちがあって初めて抱くもんだと思わないか?」
 だから、恐怖を感じるのは好きだという気持ちを持ち続けていること。そして、それはまた強さの証明――言外に間宮と東が言う。
「怖くなったら、思い出せばいい」
 言いながら、間宮がポーンとボールを真上に上げる。
 高く、高く。
「自分がどれだけバスケを好きなのかってことを……すべての“始まり”は今までそうだったように、怯える気持ちを乗り越える力に、きっとなる」
 放たれたボールの軌跡を目で追って、長谷は初めてバスケというスポーツに出会ったときのことを思い出そうとした。――思い出せなかった。気づけば、好きになっていた。ドリブルもシュートも満足にできなかったのに、気がつけば好きで好きで好きでたまらなくなっていた。
(俺、馬鹿かもしれないな……)
 試合のことも、1年後の自分も、そのときになってみなければわからない。今はただ、好きでいればいい。
 何があっても好きだという気持ちを忘れずにいればいい。
「……さて、部員が来るまで少し汗を流そうか、長谷」
 間宮がキャッチしたボールを長谷へと投げた。大慌てで手に持っていたボールを放すと、東がそれを拾いに歩いてきながら「じゃあ、僕、審判兼観客!」と楽しそうに宣言する。
 長谷は目をみはって間宮の足元を見つめた。素足でワン・オン・ワン? 無理だろうと口を開きかけたが、間宮はバスケ・プレイヤーの目で不敵に笑って挑発的に言ってきた。
「俺はお前よりもバスケが好きだ、っていう自信がある。つまりは、俺の方が裸足でも強い」
「無茶苦茶な理論ですね」
 呆れて言った東に頷きかけたが、そこで思いなおって、長谷は間宮に笑みと強気な発言を返すことにした。
「いや、それだったら、俺、間宮さんには絶対に負けない自信ありますって」
「その台詞、忘れるなよ」
 首を縦に振って、長谷は間宮へボールを戻す。すると不思議なことに、さっきまでスローダウンしていた気持ちが嘘のように、今はこの大好きなバスケをしたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのだった。

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