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● ある処暑――2004年8月23日  ●

 いつ降り出すとも知れぬ空模様にお目にかかるのは何日ぶりのことだろうか?
 高尾は頭の中で指を折り始めたが答えを見つけ出すことはできなかった。記憶を遡り始めるや否や「緊張感を取り戻せ」とばかりに背後から開錠音が聞こえてきたからだ。
 息を殺すかのように重いきしみだけを響かせて開いた扉、その向こう側からやってきたのは神田だった。彼に最後に会ったのは、曇り空同様、いつのことだったかまるで思い出せない。だが、実際の日数はさておき、だいぶ昔のことのように感じられるのは、この2つ年上の上司が刑事という職業に似つかわしくない端整な細面ほそおもてにこれまた似つかわしくない無精ひげを蓄え始めていたからかもしれない。
「……ミタは?」
 微かに掠れた低音がねぎらいの言葉どころか挨拶も口にせずに問いかけを為す。調度品の代わりにコンビニのビニル袋が散財する床には隠れる場所など1つもないが、神田は靴を脱ぎ捨るが早いか容赦なくあちこちに充血した目を運んでいた――高尾とコンビを組んでいる三鷹を見つけようと。
「ミタは……買い出しか?」
「いや、あっちですよ、便所」
 高尾は親指で台所の奥を指し示す。
「今朝方は冷えましたからね」
 脳裏で真っ青な顔をした後輩刑事が出てきたばかりのトイレに逆戻りする姿を思い出す。悪いと思うより先に苦笑が口端からこぼれた。
 ――お盆を過ぎても残暑の厳しかった東京は処暑を迎えた今日、一転して「肌寒い」日となった。高飛車で高慢ちきな女のように、こちらの都合などお構いなしに振り回すように、何の前触れもなく突然に。
 結果、劣悪な環境にはいくらでも耐えられるはずの後輩・三鷹が落とし穴にはまったかのように“転がり落ちて”行ってしまった。携帯していた薬は飲んだので彼が苦しみ続けるのも時間の問題なのだが……腹痛にさいなまれたことといい、このタイミングで上司の来訪を受けてしまったことといい、不運の重ねがけはそれまで頑張っていた様子を見ると何だか可哀相にも思えて高尾は一旦唇を引き結んでからフォローを口にした。
「初めてにしては良くやっていますよ、ミタは」
「良くやっている、か?」
 彼の上司は軽く肩をすくめる。かと思うと、開きかけた口を閉じ、数秒置いてから嘆息混じりに素気無く言った。
「張り込んでいる場所が便所ならば、な」
「……ヤツが聞いたらうれし泣きしそうな台詞ですね」
「泣かせておけ。……で、どうだ?」
 高尾に近づいてくると、神田は傍らに膝をついてやや離れたところにあるマンションへ視線を転じた。今までのやりとりでは見られぬ鋭い光が双眸に宿っている。
「動きは」
 言葉も心なしか堅く鋭い。
「ありません」
 誘われるように自分も“対象”へと目を向け、簡潔に答える。面白みのない、この数日間に何度言ったかわからない定型句。
「そろそろしびれを切らしてもおかしくはないんですが……ただ、中から連絡を取っている形跡はあります」
「今朝もか?」
「いえ。今朝はまだ。……そちらはどうです? 相変わらずあちこち飛んだり跳ねたりですか?」
 声を潜め、傍らの神田を一瞥がてら水を向ける。
 しゃがみこんだ神田は、間近で見るとますます似合わない無精ひげを手の平で触れながら小さく首を縦に振った。やや眉間に皺を寄せ、苛立ちを垣間見せながら。
「昨日は大型テレビを買いに秋葉原まで、だ」
「それはそれは……」
「3軒はしごした挙句に1番最初の店に戻ってようやく決めやがった。どこのテレビも同じだと思うんだが……そういえば、優勝旗が津軽海峡を越えたぞ」
「優勝旗?」
 一瞬、何のことだか本気でわからなかった高尾に神田は即座に付け加える。
「高校野球」
 言われて初めて今が高校野球のシーズンだったのだと高尾は思い出した。この数日間、部屋の中で三鷹と共有していた話題は山ほどあったが、スポーツに関していえばいつも五輪に行き着いていたため高校野球が行なわれていたことなどすっかり忘れていた。
「“野郎”、電気屋で大はしゃぎしてやがった」
 気持ちはわからないまでもない、と声には出さずに胸中で呟く。高尾も北海道出身だ。その場に居合わせれば面では何の反応を示さなかったとしても心の底でガッツポーズくらいしていたに違いない。――だからといって“野郎”たちに何がしかの温情を与える気は起きないが、それほど目くじら立てることでもないだろう。
「……柔道で金を取ったときの本庁も賑やかだったそうじゃないですか」
 話を逸らすように、数日前、又聞きした内容を口にする。
 長らく「無冠の女王」と呼ばれていた女子柔道選手が金メダルを取った日、彼女が所属する団体・警視庁は落ち着いた素振りを見せながらもどこか浮き足立っていたらしい。
「一階級特進って聞きましたけど、本当ですかね?」
「さぁな」
 興味なさそうに返してきた神田は、しかし、笑うように付け加える。
「羨ましいか?」
 ――羨ましくないといえば嘘になる。出世などどうでもいいと思っているはずの頭にそんな僅かなはずの想いが過ぎるのは、大昔、柔道をやっていた頃の自分が「プラスになる」と思い込んで身に飼っていた嫉妬や羨望が朽ちずに在るからに違いない。
「羨ましいのか?」
 再度の問いが聞こえた。
 数回の瞬きを経て、高尾は神田を真似るように無表情な声で返答した。
「さぁ」
 ……得られぬ栄光を羨んでも意味はない。
 ここは畳の上ではないが、別の戦場だ。そして、窓の向こうには手を伸ばせば掴み取れる物が、過去ではなく現在の自分が両手で掴み取ることのできるものが存在している。感傷的になっている時間はないということだ。
 沈黙の中に期待していた答えを見出したのか、神田は小さく笑って立ち上がった。やってきた時同様、「頑張れ」とも言わずに部屋から出て行く。
 入れ違いにトイレから出てきた三鷹が恐縮した風にしたのも一瞬、彼の肩を軽く叩いた神田は「腹に何か巻いとけ」と無表情に命じる。それが余程効いたのか、扉が閉まると慌てるように高尾に近づいてきた三鷹は、その小柄な身体をますます小さくさせて「高さん、主任、怒ってましたか?」と力ない声で尋ねてきた。
 必要以上に怯えている目を見つめ返し、しばしの黙考の末に言ってやった。
「一階級特進に負けるな、だとよ」
「……はぁ?」
 意味を図りかねる、と言外に匂わす一言。
 高尾はニヤリと笑い返し、次いで、見慣れた部屋を――カーテンの閉められた部屋の向こうにいるはずの人物に不敵な笑みを向けてやった。
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