ある楽師の物語 〜 一夜目 〜
絹糸よりも細く長い音色が、一音、宴の場に落とされる。
それは湖面に広がる波紋のように、場の喧騒を沈めて行く。
集った者たちの視線は、いま、中央に坐した一人の楽師に注がれていた。
陶器のような白い肌、床まで届く長い髪は対象的に闇より深い漆黒。
憂いを帯びた同色の瞳と血のように赤く厚い唇。
胡坐姿で
四弦琵琶を奏で始めた彼女の名はレヴァリス。
大陸に名の知れた美貌の楽師。
「……良い女じゃないか」
「しっ」
一人の男が感嘆と共に呟きを洩らし、別の男がそれを
咎めた。
楽師レヴァリスがもたらす音色はあたかも一夜の幻想のごとく……
一度耳にすれば誰もが虜になると
実しやかに噂される。しかも彼女は旅の楽師、金銀・宝玉・地位・名誉、何を差し出しても本人が望まぬ限り楽を奏でることはない。滅多に聞けない価値ある音色だ、男も女も、ただ一人の例外もなく、すべてが
固唾を飲んで、息遣いすら潜めに潜め、饗される楽を待つ。
その異様とも言える静寂の中、
撥を持つ彼女の手がゆっくりと動き、宴に落ちる音が二音となった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
月が雲間に隠れ、夜風が宴の熱を完全に冷ますようにレヴァリスの頬を撫でる。
示し合わせたようにランプの焔が一瞬だけ揺れた――その時のことだった。
間違っても控え目とは言い難い、荒々しいノックの音がしたのだ。
レヴァリスは眉をしかめて振り向いた。宴用の衣装から着替え、髪の手入れも終わり、ようやく就寝といった刻限。人が訪ね来る時間ではない。
気のせいに違いない……彼女は自身に言い聞かせ、寝床へ向かうことにした。
そこで再び扉を叩く音。先ほどよりもさらに乱暴な。
ため息に隠しきれない怒りを滲ませ、ひとまず漆黒の楽師は扉の前へ立った。
「……どなたでしょうか、このような夜半に」
「レヴァリス殿か?」
押し殺した声音が疑問に疑問で返してくる。
他に誰がいるの。
内心で毒づき、彼女は質問に答えることなく再び問うた。
「どなたでしょうか」
「……シュテインだ」
レヴァリスは頭の中で名前と顔を一致させる作業を始めた。
記憶に間違いがなければ、その名は隣国の王子の名前だ。今日の宴の主賓のうちの一人ともいう。王族たちが並び酒を酌み交わしていた姿を脳裏に思い浮かべ、厄介な相手が来たものだと心中で呟いた。
「何の御用でしょう。良識ある方ならばこのような
刻限に女性の部屋を訪ねないと思いますが」
「無礼は承知の上、だ。レヴァリス殿に話があってきた」
「明日ではいけませんか」
「今宵でなければだめなのだ。だから、このような時間にお邪魔した」
だからそれは何の用なのかと彼女は声に出さずに言う。
どうも会話が成立しない。
レヴァリスは軽く舌打ちをする。苛立ちを覚えたからだが、どうやらそれは相手も同じようだった。
「……早くここを開けてくれないか」
いつまで扉の前に立たせるのだと言外に非難の色が混じっている。
勝手に部屋を訪れておいて随分な言い様である。
そのまま立たせておきたい気持ちであったが、レヴァリスは
閂を外して扉を開いた。
レヴァリス自身も国王の招待客だが、この
不躾な王子のご機嫌を損ねたときに国王が味方してくれる保証はない。国王は既に「“あの”楽師レヴァリスを宴に呼んだ」という実績を得ており、彼女が隣国との関係に影を落としかねない状況になったら迷わず彼女を処断するだろう。名の通った楽師といえど、
所詮は楽師、だ。
「やれやれ……」
珍客はそう言いながらくすんだ金色の頭を手で梳くようにして入ってきた。
宴の場ではちらりとしか見なかったが、近くで見ればなかなかの美男子だ。王族というよりもむしろ楽師や詩人の類に多い、剣よりも愛を語らう方が似合いそうな
軟な容貌だ。――レヴァリスはまったく心を揺さぶられなかったが。
「人が来ないかと冷や冷やしたよ」
扉を閉めながら、レヴァリスは彼の発言の後半部分に概ね同意する。あまり他人に目撃されたくない光景だった。勘違いされでもしたら……と考えると冗談ではない。
言った当人は聞き流されたことを気にせず、部屋の中を我が物顔で歩くとレヴァリスが座っていたクッションの上へ断りを入れることなく腰を下ろした。
「それにしても、意外に狭い部屋だな……」
「御用の向きは?」
笑顔を貼りつけて、レヴァリスは彼の対面に座ると三度尋ねた。
シュテインはちらりと何かを気にするように周囲に目線を走らせてから、おもむろに口を開く。
「宮廷楽師にならないか?」
突然の勧誘に、レヴァリスは瞬きで応じる。
その台詞は時間と場所を変え、今まで何度となく言われてきたものだった。
だが、こんな風に何の前触れもなく、こちらの状況をまったく
忖度しないで言われたのは初めてのことだった。
彼女は笑顔のまま心の声で言う――この男は馬鹿なの、と。
「君ほどの人間にこんな質素な部屋は似合わない。私だったらもっと君に似つかわしい部屋を用意するよ」
「……ただの、
一介の楽師に豪奢な部屋など似合うわけがございません。この部屋は
私が王に願い、用意していただいたものです」
「レヴァリス」
礼儀の「礼」の字もない優男がレヴァリスを呼び捨てにした。
「人はね、その身に相応しい場というものがあるんだ。君はもっとそれを知るべきだ」
「ですから、私は……」
「君は魔女だ、という噂を耳にした」
室内のランプが微風で揺れ、二人の影が陽炎のように踊る。
レヴァリスは黒い目を細めて不意に壁を這っている自分たちの影を見つめ、短時間で何と答えようか考えた。
それから視線を戻すと、眼前に王子の顔があった。彼は手をついてレヴァリスの目の前にまで身を乗り出してきていた。
「君が真実、魔女だとしたら、ますます自覚すべきだと思う。自分に
相応しい場というものを」
魔女――それは、かつて、大陸全土に存在していたもの。
類まれなる美貌を持ち、天から稲妻を落とすことすらできると言われた異形のもの。
その力ゆえに多くの王たちがこぞって探し求め、時に戦の発端ともなった。
大陸の北部では良き魔女が長く国を治めていた時期もあり、今でも魔女そのものが信仰の対象とされている。だがしかし、南部では魔女同士の争いにより多くの命が奪われた歴史があるため、魔女という言葉自体を忌み嫌う者が多い。
レヴァリスは至近距離からこちらを凝視する二つの瞳を見つめ返し、小さく口端を
歪めた。
「おっしゃるとおり、私は魔女ですわ」
「……本当か?」
「えぇ。でも、残念ながら吟遊詩人たちの
詩に登場するような力は持ち合わせてはおりません。私ができることと言ったら、人の吉凶を占う程度」
「人を自由に操ることはできないのか?」
くだらない質問に、魔女であると告白した楽師が声に出して笑う。
時々、いる。そんなできもしない夢物語のような力を求める輩が。そして、そういう連中はいつも決まってろくでもないことを考えている。
「誰の心を操りたいのですか」
口元を抑えながら上目遣いに王子を見て、レヴァリスは
不埒な男に欲望の
在り
処を尋ねた。
王子は答えた。期待に満ちた眼差しで。
「フィーラ王女だ」
「フィーラ様……」
砂漠に咲いた一輪の花、麗しの姫君フィーラ。
詩人の歌の一節が蘇り、宴の前に尊顔を拝したときのことが思い起こされる。
レヴァリスの楽を心待ちにしていたと語った王女。無垢でありながらも気品に
溢れた少女だった。
「フィーラ様はあと
二月もすればウルヤへ嫁がれるはず……」
「それを私は阻止したいのだ」
「阻止?」
訝るレヴァリスにシュテインは大仰に頷く。
「政略結婚なのであろう? 私はフィーラ王女が不憫でならない」
どこでそんな話を聞いてきたのだろう。
確かにウルヤは大国であり、九人の王子への輿入れにはそういった要素が入り込んでいないとも限らない。
だが……首を傾げてレヴァリスは「お言葉ですが」と彼に言う。
「フィーラ様はウルヤの王子と相思相愛との話を私は伺いました」
「そんなはずはなかろう」
「ご本人からお聞きした話ですが」
「そう言わされているだけに違いない」
彼女は笑顔を形作ったまま心の中で断じた――この男はただの馬鹿だ、と。
魔女なら人の心を操れるかもしれないと思い込む。
大国に嫁ぐのだから政略結婚に違いないと信じ込む。
思慮も分別もない。これをただの馬鹿と言わずして何と言う?
レヴァリスは音もなく立ち上がると、優しく説くように王子に言った。
「そこまでおっしゃるのでしたら、ご自分でフィーラ様に問われてはいかがです? フィーラ様が事実、婚儀を嫌がっているのであれば、私も力をお貸しいたしましょう。今夜はひとまずお帰りくださいませ」
反論は聞かないとばかりに扉を開けて。
もちろん、彼女は預言者ではないのだからわかるはずもなかった。この二日後に自分の発言が発端で事件が起きることなど……。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……なぜこんな不便な思いをしなければならないっ!」
独白し、シュテインは部屋にあるクッションを壁へ投げつけた。
忌々しかった。
同行している兄――国王代理であるがゆえにその命令は絶対だ――に、与えられた部屋にこもっているよう厳命されたのだ。
腕の切り傷は大した深さではないが、事が事だけに勝手に出歩くな、と。
そうして彼が大人しくしている間に話し合いがなされているに違いない。
この国の王と自分の兄が、加害者の父と被害者の兄という立場で話し合いを。
(あの女が言うとおりにしていれば良かったものを……)
不貞腐れて寝床へ身を投げ、彼は王女フィーラを心中で罵倒する。
そもそも、今回の計画は彼女のために立てたものだった。
ウルヤなど歴史もない、軍事力だけの大国に嫁ぐ彼女をシュテインが憐れみ、望むのであれば自分の妻にしても良いと言ってやったのだ。
その提案を王女は跳ね退けたばかりか、何を考えたか短剣を自らに向けてシュテインを留めた。本気ではなく脅しだったのだろうが、揉み合ううちに誤ってその剣でシュテインが怪我をしてしまったのである。
ついカッとなって彼は王女を引っ叩いたが、あそこで誰も駆けつけなければもう少し穏便に事を収められていただろう。
不運が重なった。忌々しいことこの上なかった。
「大体、あの魔女が自分で聞けと言ったからこうなったのだ」
シュテインは吐き捨てる。
あの闇より深い黒い髪と瞳の女。
彼女の助言が自分をこのような目に遭わせた、と王子は憤る。
「あの魔女さえ私の言うことを聞いていれば……」
「そうすれば思いどおりになったとでも?」
突然、そう話しかけられシュテインは驚きのあまり身を起こす。
部屋には自分以外誰もいないはずだ。
だが、声は幻聴ではないとばかりに続けて聞こえてくる。
「とんだ勘違いですわね」
声はバルコニーの方角から。
寝床から立ち上がると同時にランプの火が音もなく消えたが、差し込む月明かりに横顔を照らされた人物が誰なのかはその漆黒の長い髪を見れば一目瞭然だった。
「レヴァリス……」
シュテインは今の今まで疎んでいた女が突如目の前に現れたことに大いに怯んだ。が、それも一瞬のことだった。
月光に映える彼女の横顔が息を飲むほどに美しかったため。
……いや、この女は最初から美しかったのだ、とシュテインは気付く。
フィーラのように頼りなげな儚さとはまた別の、毅然とした、凛とした美しさがある。
旅の楽師などにしておくには惜しいくらいの。
「……宮廷楽師にならないか」
「またそのお話ですか」
誘われるように彼女に向かって一歩、また一歩と踏み出し、シュテインは言葉を重ねる。
「お前に流浪の身は似つかわしくない。お前には相応しい場所がある」
自分は誤った。
手に入れるべきはフィーラではなかった。
このレヴァリスだったのだ。
「私の傍に来い。お前にはそれだけの価値がある」
強引に肩を掴んで自分の方へと身体を向かせ、シュテインは力強く言い切った。
返事はなかった。
言葉による明確な返事は。
漆黒の楽師は何も言わず、ただただ肩を震わせた。泣いているのかと思ったが違った。――笑っていた。
「楽の音は何物にも縛られぬ自由なもの。囲われて奏でる音色など私の求めるものではございません」
凄絶な笑みにどこか恐ろしさを感じ、言うべき言葉を失っていると、彼の視界を何か白いものが横切っていった。
何だろうかと顔を上げ、シュテインは凍りつく。
羽だ。羽だった。
翼から落ちる羽だった。
その翼は――目の前の人物の背から伸びていた。
三枚、見間違いではなく、眼前の楽師から生えている。
悲鳴にならない悲鳴を上げて、シュテインはレヴァリスの腕を離して後ずさる。笑んでいる楽師はそれはそれは美しかったが、それが今はとてつもなく恐ろしいものにしか見えない。彼女は本物の魔女……人ではないのだから!
「シュテイン様、私の名はレヴァリス。楽師レヴァリス。人の心は操れませんが……人の心を奪うことはできますわ」
詩のように語りながら、漆黒の魔女が手に携えていたものを構える。
四弦琵琶に、それを奏でるための
撥。
「一曲、奏上いたしましょう」
広げられた翼が、ゆっくりと宙を掻く。
玲瓏たる音色が肌を滑り落ちる絹のように
耳朶に流れ込み、寄り添うような甘やかな声音と共に琴線を震わせる。
舞い落ちる羽の白さが夜の闇の中で一際眩しい光のようにシュテインの視界を埋めつくす。
幻想的な世界。
見据える漆黒の双眸に意識までも絡め取られる。
音色は一つ。それとも、二つ?
近くで囁かれているような、遠くで呼ばれているような、溶けて行く意識で捉えられない音色の数はいったいいくつ?
さようなら、おやすみなさい。
音の狭間で腕に抱かれるがごとき歌声。
彼女からの優しい別れ。
彼女……?
かのじょって、誰?
その前に……ぼくは、誰?
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
すまぬな、と詫びられ、レヴァリスは
頭を緩やかに振った。
「既にこの身に過ぎたるもてなしを十二分に受けました。どうぞ、これ以上のお気遣いは無用にございます」
掛け値なしの本音であったが、王はなおもため息とともにひとり言のように呟く。
「馬鹿げていると儂は思っている。シュテイン王子の件がそなたの仕業などと……どこの誰がそんな流言を」
「王子の容体はいかがなのですか?」
王の言葉をあえて遮ってレヴァリスは問いかけた。
宰相が彼女を叱責したが、王は結果的に追い出すことになってしまった楽師に負い目を感じてか、宰相をたしなめてから質問に答えた。
「命に別条はないようだ。儂も詳しいことまでは聞いていないが、どうも精神が幼子に戻ってしまっているとかでな。原因はわからぬ。生死に関わる状態にまでならなかったことが我が国にとっては幸いであった……」
その程度ならばフィーラの件とで相殺できる。
無音の語尾に潜んだ真相をレヴァリスは読みとる。
そこまで確認できれば、もうこの場にいる必要はなかった。彼女は辞去の言葉を丁寧に述べ、傍らに置いた琵琶入りの袋を手に持つ。
「……そなたを宮廷楽師として迎えたかったのだが、な」
名残惜しそうに王が言う。
漆黒の楽師は編んだ長い髪を身体の前に持ってきてから、片膝を折り、頭を深く垂れると改めて言うのだった。
「楽の音は何物にも縛られぬ自由のもの。私はその音色を奏でる楽師。ゆえに、私の心も楽と同じにございます」と。